アブチラガマ(糸数壕)




4月24日、日本軍は南風原陸軍病院の糸数分室としてアブチラガマを使用することになりました。
ひめゆり部隊の女子学生たちとともに、重傷患者が次々と運ばれ、
もともと住民の避難壕として使われていたこの壕は、たちまち騒然とした雰囲気に包まれていきます。

5月25日、米軍の侵攻とともに糸数分室は解散となりましたが、住民とともに一部の兵士や重傷患者が残ることになりました。
米軍は、壕に馬乗り攻撃を仕掛け、岩盤に穴を開けてはガソリンや黄燐弾を投げ込んできます。
兵士たちが壕内の安全な場所に居座っていたため、住民側に大きな犠牲が出たそうです。
壕内の天井には、米軍の爆弾により吹き飛ばされた一斗缶が、50年以上たった今もべったりと張り付いています。

やがて6月に入り、沖縄戦が終結を迎えます。
地上では、捕虜となった住民たちが収容所での生活を始めた頃、壕ではまだ依然として戦争が続いていました。
大量の爆雷を用意して玉砕を計画していた兵士たちに、地上の住民が降伏を呼びかけます。
しかし、敗戦を信じようとしない日本軍は、壕内の住民に命じ、地上の人びとを殺させたのです。
こうして、住民が同じ部落の住民を殺すという、惨劇が繰り広げられることになったのです。
アブチラガマに隠れていたすべての兵士が投降したのは、終戦後の9月でした。

MAP


   
壕入り口付近
入り口は、民家の塀の脇に用水か井戸の様に口を開けています。
傾斜は急で、足下が悪いため、降りるには十分な注意が必用です。
壕の内部には、手術室跡、病室跡などが見られます。
中心部分には天井も高く、2階建ての病室が建っていたという話も伝えられています。

   
壕内部にある井戸(写真左)と天井に残る黄燐弾の跡(写真右)



現在の出口付近
壕内部より螺旋階段が設置され、安全に行き来できるようになりましたが、
そのため、壕の外見は当時の様子からはほど遠い姿になってしまいました。


      

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