ひめゆりの塔周辺


もっとも大規模な女子学徒隊として、沖縄戦の代名詞とされてきたひめゆり看護隊。
野戦病院勤務とはいえ女子学生が最前線に立つというその形態は、
太平洋戦争史の中でも、特異な存在といえるのではないでしょうか。
しかし、その悲劇・悲話のみが強調され、実際に知られていないことが多いのではないでしょうか。
ここではひめゆり学徒隊について、できるだけわかりやすく解説したいと思います。


1945年3月24日米軍の艦隊が本島南部の港川に集結しました。
いよいよ艦砲射撃が始まったのです。
沖縄県立第一高等女子と女子師範学校女子部の生徒たちは、南風原の三角兵舎に集合していました。
この2つの学校はひめゆりをシンボルマークにしていたため、ひめゆり学園と呼ばれていました。
米軍の艦砲射撃は激しさを増し、翌25日に予定されていた卒業式は、とうとう行うことができませんでした。

3月27日、女子生徒たちを引率していた教師たちが本部前に集められました。
米軍の攻撃にともない「天一号作戦」が発動されたのです。
このときから、ひめゆり女子看護隊は軍と行動をともにすることが決定的になりました。
29日夜、三角兵舎内で臨時の卒業式が行われました。
わずかなろうそくの灯りの中、卒業証書授与だけの簡素な式だったそうです。
式の最中も、米軍の艦砲射撃は止むことがありませんでした。

1945年4月1日米軍上陸。
情勢は次第に悪化し、いよいよ三角兵舎にもいられなくなりました。
陸軍病院は、南風原の丘にある24号壕へと移動しました。
最前線からの傷病者は、次から次へと運ばれてきます。
野戦病院は、たちまち患者でいっぱいになってしまいました。
看護隊の女学生たちも、24号壕を後にし、
第1外科・第2外科・伝染病棟、そして一日橋分院・識名分院というように、
それぞれの病棟に配置されて行きました。


第1外科壕
「ひめゆりの塔」で有名な第3外科壕から那覇方面に数百メートル戻ったところ、
道の向かい側に、「第1外科壕」の標示があります。
標示にしたがい脇道にはいると、民家の奥の畑の中に、こんもりとした茂みが見えます。
ここが第1外科壕跡です。ひめゆり看護隊のもうひとつの壕です。
観光客で賑わう第3外科壕とは対照的に、関係者以外訪れる人は多くありません。

  


第2外科壕
第1外科、第3外科の壕がある米須からは少し離れたところ、
糸洲の集落の外れにひっそりと「陸軍病院第2外科壕跡」の碑はあります。
かつて壕があったと思われる場所は、ほとんど土に覆われており、
隙間からわずかに中の様子を窺うことが出来ます。
こちらも第1外科壕同様、訪れる人はほとんどいません。



  
道路に面する一角には「ぬちどうたから」(命どぅ宝=命こそが宝の意)と書かれた碑も建てられています。


第3外科壕

戦後、第3外科壕跡にはじめてたてられたこの碑が「ひめゆりの塔」です。
このページのトップにある塔は、後に建てられた物ですが、
訪れる人は、そちらの美しいレリーフや大きさに目を奪われ、
傍らにあるこの碑は見過ごされてしまいがちです。

1945年6月19日、米軍に追われ軍とともに南部に逃れてきた
ひめゆり学徒隊は、この壕で解散命令を受けます。
見渡す限り敵だらけの戦場に、放り出されることになる日の前夜、
この壕に米軍のガス弾が投げ込まれます。
ほぼ垂直に近い構造のこの壕では、身を隠す場所もありません。
こうして、第3外科壕の女学生たちは、戦場に散っていったのです。


積徳女子看護隊 糸洲の壕
こちらは、第2外科壕の近くにある積徳学徒隊の壕です。
積徳学徒隊は、ひめゆり学徒隊が従った球18803部隊とは別の
豊見城にあった第24師団(山部隊)の第2野戦病院に配属されました。


琉球ガラス村にほど近い農道の入口に案内板が立てられています。

  
「糸洲の壕」の立て札がなければ、側溝と見まごうばかりの入口付近です。
通路には、赤いきれいな花が咲いていました。

  
壕の入口付近までは、コンクリートの階段が作られています。
今回は残念ながら内部にはいることが出来ませんでしたが、
この付近からも、はっきりと分かるほどの水の音が聞こえてきました。
壕の内部には、水が流れていることが分かります。


      

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