摩文仁の丘周辺の戦跡


第32軍の壕と黎明の塔

5月27日、首里の本部壕を追われた32軍は、
やがて摩文仁にたどり着きます。
すでに、軍隊としては壊滅状態であった32軍は、
6月9日の先頭を最後に組織的な抵抗を止め、
米軍の掃討作戦が始まります。

6月19日、ついに牛島満司令官は
「爾今(じこん)各部隊は各局地における生存者之を指揮し、最後まで悠久の大儀に生くべし」
という命令を各部隊に下し、22日長勇参謀長らとともに自決しました。
(自決の日は23日という説もあり、現在この日を沖縄終戦の日としています)

  
摩文仁の丘に建つ「勇魂の碑」
牛島軍司令官
長参謀長
両将軍之墓跡
とあります。

  
摩文仁の丘の先端には32軍を祀る「黎明の塔」が建てられています。
ここからは、周囲の海が一望できます。

  
勇魂の碑や黎明の塔のある丘から階段を下りると、
そこには牛島司令官らが隠れていた壕が口を開いています。

  
壕の入口には「第三十二軍司令部終焉之地」とあります(左)
洞窟内部の現在の様子(右)この中で、将校達は何を思ったのでしょう。


健児の塔

沖縄戦では、女子師範・高等女子などの女学生を中心とした
ひめゆり隊・白梅隊などの女子看護隊とともに、
師範学校男子部や県立中学校の男子学生を中心に
鉄血勤皇隊が編成されました。
この部隊は、陣地構築・連絡諜報・食料調達などが主な任務でした。
また、急造爆雷を背負って戦車に突入したり、
敵地に進入し背後から攪乱する斬り込みの任務を命じられた者もいました。
沖縄県の前知事である太田昌秀氏も、この鉄血勤皇隊の出身です。

この「沖縄師範健児の塔」は、1946年に師範学校の同窓生によって建てられたものです。

  
健児の塔の後方には、「平和の像」が建てられています。
向かって右から友情・師弟愛・永遠の平和を象徴しているそうです。

  
また、塔の向かい側には、生徒たちが自決した壕があります。
壕の中には納骨堂がつくられ、亡くなった学生たちの霊が奉られています。

  
健児の塔から海岸に降りていく道がありました。
この道の途中には、隊員たちが水くみに通ったという井戸が残っています。
海岸に降りると、岩場にも慰霊の塔があり、線香や位牌が供えられていました。


  
こちらは南冥の塔。
沖縄戦に参戦した日系二世の米兵が
付近の住民や身元不明の兵士などの骨を奉ったものです。
住民や兵士は、このようなジャングルの壕に隠れていたのです。

  
他にも、様々な部隊ごとの慰霊碑が建っています。
中央航空路部隊の碑(左)と独立臼砲第一連隊の碑(右)。


    

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